転売とは、ある人から買ったものを別の人に売ることを指す。安く買って高く売るという商業活動の基本であり、商社や小売店、個人までもが行っている行為だ。例えばスーパーマーケットが扱っている米は、米農家から買い消費者に売っている。個人が要らなくなった中古品をメルカリで販売するのも、多くの場合利益を得ていないとはいえ、転売と言える。
さて、転売を行うことで利益を得ている個人を転売ヤーと言い、多くの消費者から忌み嫌われている。転売ヤーは需要の高い商品を買い占め、定価の数倍で販売しているからだ。例えばPS5やポケモンカード、コロナ禍ではマスクや消毒液など、転売ヤーの標的になった商品は枚挙にいとまがない。
転売ヤーは不当に利益を得ているとして、世間では彼らを非難する声が多い。しかし一部のウルトラバカ野郎は「これが資本主義だ。小売店だって同じことをしている。適正価格に戻しているだけだ」などと擁護し、転売ヤーを正当化しようとするのだ。
転売ヤーの問題は買い占めにある
確かに転売は立派な経済行為であり犯罪ではない。その点で言えば転売ヤーに問題はないが、実際は転売ではなく買い占めに問題があるのだ。
転売ヤーは需要の高そうな商品を見つけるや否や、集団でその商品を買い占める。つまり市場からはその商品が消えて品薄状態となる。この状況を言い換えると、転売ヤーによって意図的に品薄状態が作り出され、それにより不当に価格が釣り上げられているのだ。これは独占禁止法で禁止されている、複数の企業が結託して流通量を調整するカルテルに近いと考えることができる。転売ヤーは、適正価格に戻して販売をするという市場調整役ではなく、不当に品薄状態を作って独占/寡占価格で販売するという、市場の流通を妨げている存在なのだ。
さらに転売ヤーの買い占めによって、企業は正しい需要を読めなくなる。企業は在庫を抱えないために発売当初は供給量を抑え、消費者の反応を見てから供給量を増やすか減らすかの意思決定をし、需要と供給を一致させようとする。しかし転売ヤーの買い占めによって正しい需要を読めず、供給量の意思決定ができないため、結果としてその産業自体が衰退するという事態にも発展しかねない。
転売ヤーを糾弾する際には「転売」に焦点が当たりがちだが、以上のように実は「買い占め」に大きな問題がある。転売ヤーは市場の調整役どころか、市場の効率的な流通を妨げる癌なのだ。
擁護派の主張:小売店
小売店と転売ヤーは全く異なるものであり比較するのもおこがましいことは先の説明を見れば明らかだが、それ以外で小売店と転売ヤーの違いを言うなら、提供する価値の大きさが異なる。
小売店は米や魚介類、野菜や果物をそれぞれの生産者から買い付け、それらを消費者に転売している。これにより、消費者は各生産者の元に商品を買いに行く必要がなく、近所のスーパーマーケットに行くだけで全てを買うことができる。これが小売店の提供する価値であり、転売による利益に相当すると考えられる。
一方で転売ヤーが提供する価値は何も無い。転売ヤーがいなくても近所の小売店で購入可能であり、需要が高い商品なので転売ヤーが流通を促す必要もない。供給量が100だとすると、転売ヤーがいなければ100人に適正価格で商品が行き渡る。
小売店も転売しているという主張は全くの的外れであり、価値の発生する転売なのか、そうでないのかの明確な違いがあるのだ。
擁護派の主張:資本主義
「どんな手段でも金儲けできれば良い。それが資本主義社会だ」という転売ヤー擁護派もいる。しかしこの主張は資本主義を勘違いしている。
確かに以前の資本主義においては、自社の利益を最大化することが最重要視されていた。しかしそもそも資本主義は国や社会を豊かにするためのシステムであることに加えて、現在では環境破壊をはじめとする諸問題の顕在化を経て、環境保全などの社会貢献が重要視されている。つまり自社の利益を優先して汚染水を垂れ流すような企業は大きく非難され、社会に対して何らかの貢献をすることが求められている。先の話でいえば、小売店は地域住民の生活を便利にするという社会貢献をしている。一方で転売ヤーは社会に全く貢献しておらず、自身が利益を得ているだけだ。
転売ヤー擁護派は「反対派の意見は感情論や倫理観の話ばかりで論理性に欠ける。転売ヤーは資本主義という論理に則っているだけだ」という主張をすることが多いが、実際は現在の資本主義に即しておらず、倫理的には元より論理的にも破綻しているのだ。