現代においてオタクは市民権を得ているのかという話

一昔前においては、オタクは恥ずべきことであり公言すべきことではなかった。しかし現代においてはオタクへのネガティブなイメージはかなり和らいでいて、例えば芸能人であってもオタクを公言している人がいるほどだ。ここで、多くの人は「オタクが市民権を得た」と思っているが、実際はオタクという言葉が指す属性が変わっただけなのではなかろうか。

変化:オタクという言葉が指す属性

一昔前までは、深夜アニメの美少女キャラで発情している気持ちの悪い人こそがオタクであり、オタクという言葉が指す属性は狭かった。しかしアニメやゲームのジャンルが広がり一般に受け入れられるようになると、オタクという言葉が指す属性も広がった。ジャンルに関わらず、アニメやゲームのファンをオタクと言うようになったのだ。この変化はジャンルだけでなく、コンテンツに対する理解度に対しても見られる。コンテンツの詳しい知識を持っている人だけがオタクではなく、「にわかオタク」という言葉があるように、コンテンツを嗜んでいる程度であってもオタクと分類されるようになった。

対象とする属性が大きく広がったことにより、オタクという言葉が持つネガティブな意味合いは薄れ、ネガティブな文脈で語られることが少なくなった。現代では、オタクであると公言することが不利に働かないケースが増え、むしろ有利に働くことすらあるのだ。例えばいわゆる”陽”側の人がオタクを自称することで、ギャップによって強い印象を与えることができる。さらに多くの人と共通項を持つことで親近感を与えるという効果もある。いわばオタクという肩書は、自身が注目を集めるためのツールとして用いられるようになっている。

変化:オタクは着脱可能な個性

オタクはツールとしての側面だけでなく、着脱可能な個性としての側面も持つようになった。インターネットによって自分の観測できる世界が大きく広がった結果、何者かである人を多く目にすると同時に、自分が何者でもないことに気づく。そこで、何者かになるための個性としてオタクが選ばれるのだ。アニメを1クール分見ればオタクを名乗れるのだから、こんなに簡単なことはない。特にたびたび見かける、Twitterのプロフィール欄に大量にアニメ名を記載している人は、個性を得るために必死になっているのだろう。観測した限りではそのような人は未成年と思わしき人が多く、彼らは個性がないからだ。そして人生で何らかの成功体験をして新たに個性を得ると、オタクという個性は必要なくなりプロフィール欄の記載やアカウント自体が消えるのだ。

つまりオタクという言葉が受け入れる人々の範囲が大幅に広がった結果、無個性な個人が簡単に得ることのできる個性、そしていつでも捨てることのできる個性となってしまった。これの良し悪しを判定したいわけでも、自分のアイデンティティを求めて奔走している未成年を批判したいわけでもないが、ワンシーズンの間着ただけで捨てられる服のようなオタクの扱いを見ると、少し思うところがないでもない。

注意:コアなオタクの立場は変わらない

ここまで、オタクという言葉が指す属性が広がり、オタクが社会に受け入れられるようになったという文脈であったが、受け入れられたのは広がった属性の部分だけであり、従来の属性(美少女キャラに発情するタイプのコアなオタク)は依然として受け入れられていない。これを勘違いしてしまうとただのイタイ奴になってしまう。以前Twitterで少々話題になっていた「給食の時間にVTuberの気持ちの悪い曲を流す」というような、身の程を弁えないオタクは最悪だ。キャラソンの性格が強い曲や下ネタ曲というのはコアなオタク界隈での究極の身内ネタであり、そのような身内ネタは外部から見ると不快極まりない。「オタク全般が市民権を得た」と勘違いしてこのような振る舞いをしてしまうと、大やけどをすることになるだろう。これが鬼滅の刃の主題歌であれば何も問題ないのだが。

インターネットでは同じような趣味を持つ同志が多数いて、その集団の中に身を置くことでエコーチェンバー現象のごとく、大多数が同じ趣味を持っている、大多数が認知していると勘違いしてしまいがちだ。しかしコアなオタク趣味はどこまで行っても身内ネタであり、世間の認知度は低く、受容されていないことを忘れてはならない。