権利を主張する人への苦手意識に関する話

スマートフォンの普及によって、誰でもどこからでもインターネットにアクセスできるようになったことに加え、SNSによって個人が簡単に発信できるようになったことにより、様々な意見や思想と触れ合う機会が増えている。

中でも、何かしらの権利を主張する投稿は反響を呼び、自分の目にも留まることが多い。例えば最近だと、トランスジェンダーの話題、男女に関する話題、黒人の話題だ。このような大きなトピックではなく、日常レベルの小さい権利を主張する投稿もよく見られる。

こうした権利主張の「議論」を見るたびに、退屈な気分になる。なぜならそこで行われているのは議論ではなく感情と罵詈雑言のぶつけ合いで、建設的ではない争いであり、飽きもせずに永遠にどこかしらで行われているからだ。

苦手意識の理由:ダブルスタンダード

権利を主張する人への苦手意識の理由は、彼らがダブルスタンダードだからだ。例えば最近話題になったアニメキャラの黒人化でいうと、白っぽい肌を黒っぽくするのは許されるが、黒っぽい肌を白っぽくするのは許されない。しかも黒っぽい肌にすることを、「あるべき姿に修正した」と言うのだ。それを糾弾しようものなら、「差別だ、レイシストだ」などと言われ、人格攻撃をされることすらある。一体どちらがレイシストなのだろうか。

この例のように、権利を主張する人たちは、社会における平等など考えておらず、自分のわがままを通したいだけだ。「俺は自分の好きなようにやるけど、お前らは俺を批判するな。批判するやつは差別主義者だ」と。自分と異なる意見は差別主義者として一蹴するせいで、まさにお話にならない。

彼らがこのダブルスタンダードを、本当はおかしいと思いながら主張しているのか、本当に当然だと思いながら主張しているのかはわからないが、どちらにしてもダブルスタンダードな時点で到底受け入れられるものではない。社会的弱者やマイノリティだから批判されているのではなく、ダブルスタンダードを堂々と突き通そうとするから批判されているだけだ。被害者ぶり、「加害者」に対して攻撃的になるのは図々しいにも程がある。

このような、ダブルスタンダードを主張し、話が通じない人々に対して苦手意識を持たないほうが難しいだろう。

重いはずの言葉が軽くなっている

本来、「権利」「差別」「平等」「多様性」などという言葉は重いものであり、社会全体が解決に向けて重く受け止めなければならないものだ。しかし今やこれらの言葉は軽くなっているにとどまらず、多くの人がうんざりしている。これらを主張するダブルスタンダード野郎が多すぎるからだ。

ダブルスタンダード野郎は全ての言動が自分本意であり、他者にも権利があることをまるで考えていない。不遇な立ち位置の者を社会の標準的なラインまで引き上げようとしているのではなく、自分を標準的なラインを大きく超えたところまで不当に引き上げようとしている。要するに彼らは「権利」「差別」「平等」「多様性」といった便利な言葉を盾にして好き勝手しようとしているだけだ。少なくともそのように感じる。

このような言葉の使われ方をしていると、それらの言葉は軽くなり、力がなくなる。そもそもほとんどの人にとって「権利」「差別」「平等」「多様性」などというのは他人事であることを忘れてはならない。しかし言葉に力があると、自分事として考えたり心を痛めたりする。例えば、「虐待」「自殺」のような言葉は力を持っていて、そのような話題を見るたびに多少なりとも心が動くが、一方で「権利」「多様性」などという言葉は聞き飽きていて、正直なところどうでも良いと感じる。これらの言葉を聞くたびに「またダブルスタンダード野郎が好き勝手に主張してる」という感想が先行し、それ以上を考えないのだ。

つまるところ、ダブルスタンダード野郎が主張すればするほど、その言葉に対する世間の関心は薄れてしまい、真摯に主張している人たちの声すらも届かなくなってしまう。不遇な立ち位置の者を殺すのは、声の大きい愚者なのだ。